ルカ十八章

子供のころから、掟を順守していると言うお役人が尋ねます。
「掟は全て守っているが、あと、何をすれば永遠の命を得られるのか?」

イエスの答えは、
「一つ欠けている。
全財産を売り払い、貧しい人に与えなさい。」
財産に強い拘りのあるお役人は、ただ、悲しんだそうです。

金持ちが神の国に入るより、ラクダが針の穴を通る方が易しい。

では、一体どのような人が神の国に入れるのかと首を傾げる人達に、
イエスは言います。
「人間に出来ないことも神には出来る。」

救ひは、掟を守るとか、財産を捨てると言った人間の行為によるものではなく、
唯、神の恵みにのみよるという完全他力救済の宣言だそうです。
無心で親の慈愛を信じる幼児だけが神の国に入る資格がある。

でも、その後のイエスの言葉が難解です。

「神の国の為に、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てるものは
 誰でもこの世ではその何倍もの報いを受け、
 後の世では、永遠の命を受ける。」

財産さえ捨てられない人間が、親子妻子を捨てられる筈がありません。

イエスは、ホントに
”捨てろ”と言っているのでしょうか?


「悟りの瞬間」 もう25年も前に発刊された本を読み返していました。
韓国の素空慈なる方の「伝灯録」講義です。
その一文
道林禅師と言う人がいた。
会道という弟子が聞いた。
「どのようなものが和尚の仏法でしょうか?」
大師は一本の糸を服から抜いて吹き飛ばした。
その時会道は悟った。

仏法とは悟りへの道、
イエス(永遠の命)も亦同じでしょう、
そこに至る為には、
現世の存在~財産はもとより親子兄弟さえ~
ゆめまぼろし、鴻毛の軽さと知らねばならない。
その知恵を得た時、
そこにイエスが居る。

そして、更に、イエスは説く
人間には出来ないが、神なら出来る。
而して 神を愛すべし。
心を尽くし、精神を尽くし、思ひを尽くして。

もろもろの心労を神に委ねよ。
神、汝等のために慮り給えばなり。
(ペテロ第一 5-7)0002

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ルカ十五章

キリスト教と仏教のお話です。
ルカ15章は、
迷える一匹の小羊、見失った一枚の銀貨、帰ってきた放蕩息子の喩です。

始めの二つは、無意識のうちに神の手に掬われるお話。
三つ目は、悔い改めにより神の恵みに与るお話。

この喩は、
家出した幼子が五〇年もの苦しい労働の末やっと父を知る、法華教「長者窮子の喩」そっくりです。

キリスト教と仏教のお話でした。

それだけではなくて、
ルカ十五章を聞いて、
「善人なおもて往生す、況や悪人おや」と言う言葉を思い出します。
迷った小羊、何処かに行ってしまった銀貨は善人のようです。
でも神の前ではやはり放蕩息子と同じなのですね。

歎異抄と言えば、
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五木寛之の親鸞を読みました。
七〇歳を過ぎても、師法然の影から出られず、
自身の阿弥陀仏を見ること適わず、念仏の目指すものさえ悟りきれない親鸞は、
五木氏の姿に違いありません。

七〇を過ぎると人生を遡さまに歩く人もいるようです。
犯した罪を一歩々踏みながらーーー
それでも、いつか救われる日は来るのでしょうか?

浄土宗は「南無阿弥陀仏」といい、

キリスト教は、イエスの十字架の贖いです、
「我はイエスキリストを信ず。
精霊を信ず。
罪の許し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。」

その様に祈り続ければ、
やがて神は信仰を与え給うのでしょうか?

悟りに至った親鸞の足跡を知りたいと思います。
救いに与った人達の跡を知りたいと思います。

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ルカ第10章

先週の説教はルカ第10章。

以来、善きサマリア人のお話をズット考えていました。

イエスを試して、律法学者が聞きます。
「永遠の生命を嗣ぐ為に何を為すべきか?」
イエス答えて曰く
「律法は何と言うか?」
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして汝の神を愛すべし。
 汝の如くに汝のとなりを愛すべし」

「それで良し」と言うイエスに、更に聞きます。
「わが隣とは誰なるか?」

そこで、善きサマリア人のお話です。
強盗に身ぐるみ剥がれ息絶え絶えで道端に倒れている旅人の傍を、
司祭もレビ人も見ぬ振りで通り過ぎます。
次に通りかかった異邦のサマリア人は、
彼に油と葡萄酒を注ぎ傷を包み、驢馬に乗せ旅籠に連れて行きます。

そしてイエスは律法学者に問いかけるのです。
「強盗に襲われた旅人にとって、誰が隣人か?」と、
「憐みを施したものなり。」律法者の答えです。

イエスのテストに、律法者が見事に落第した一瞬!

そんな風に思えませんか?

イエスは、世に「剣」を齎すために来たと言います。
イエスの説くところは、徹底的に厳しい、
己に利を齎す者を愛するは当然、
愛すべき隣人とは「敵」であるべきだと説くのです。

追剥にあった旅人にとって、愛すべき隣人とは、
見棄てた司祭、レビ人、
とりわけ追剥そのものである筈です。

そして、善きサマリア人が隣人であると言う律法者には、
「そう思うならそうしなさい。」と言い放つのです。
それすらも出来ないだろうと言うことかも知れません。

無知で卑怯な律法者は?
心に闇を抱えた、わたし?

我が罪を許したまへ。
試みに遭わせず悪より救いたまへ。

神を愛する為には、
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思ひを尽くさねばなりません。
自分を愛するほどにも隣を愛せぬもの、
自分すら愛せないものが、神を愛すなど到底無理なのでしょうか?

神を愛する為には、
奇跡の自覚、神秘体験が必要でしょうか?
真言宗の荒行、禅宗の座禅、そんなものを通じてーーー。
そして、神を体感する。
十字架の救いを確信するに至る。

昔、ある牧師から聞きました。
嫌いで嫌いで顔も見たくない隣人がいたそうです、
何故嫌いなのか、よく考えてみると、
隣人は私のソックリさんだったとか。

神の命令は、困難で難しい。

思い煩いは
いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを、心配して下さるかです。
(ペテロ第1 5-7)

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アーメン

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大いなる戒律

鶴ヶ島聖書教会、
鎌田牧師今年最後のメッセージは、
マタイ22章34節。
パリサイ人らイエスを試みて問う。
「律法の中、いずれの戒律が大いなる」
イエス言い給ふ
「なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛すべし」
第2も又これにひとし
「おのれの如くなんじのとなりを愛すべし」

説教を聞きながら、
昨日のNHKを想い出していました。
「イエスと共に歩く沖縄」
平良牧師の米軍基地反対運動の足跡です。
師は、
在沖米軍及びその基地の存在は、イエスの許し給わざる処にして、
神の意図のまま撤去運動に身を投ずると言うものでした。
普天間の前に集まり、
「We shall overcome」と唱いあげます。

師はさる人に
「平和活動では無く、人間の魂にもっと関って欲しい」と言われたそうです。
師の答えは
「信仰の幅を、何故、その様に狭めるのか」と言うことでした。

魂に平和運動を加えて、幅が広がるものかどうか判りませんが、
信仰と政治、或は政教分離。

信仰者が政治に関っていけない訳はありません。
いや、人は政治に関るべきです。

しかし、信仰を盾にするは「義」なるか?

1939年6月
ミシガン州グランドラピッズで開かれたCRC大会は
戦うべき義務のある戦争のある事を認め、
「政府の招集する兵役の義務を拒否するキリスト者は、
国家に対し不忠実なだけでなく、
政府に従い国を守ると言う神から与えられた義務に対しても不忠実である」とし、
1938年
「戦争関る姿勢は、神の前に、自らの良心に従うべきであり、
教会は、その人らの良心を認め支持する」とした長老派の決定を、
(根拠のない、大雑把な主張である)と非難したそうです。

信仰なるものを深慮した長老派の決定は見事に正しいと思います。
しかし、国家の真摯な決断を良しとし、これに全身協力すべしとするCRCの決心を否定して人の世が存在できる筈もありません。
だから、イエスは言ったのでしょう
「カイザルのものはカイザルにーーー」
パウロは
「凡ての人、上にある権威に服うべし、
あらゆる権威は神によりて立てられる」(ロマ書13章)と書き送ります。

平良牧師が、政治的活動の背後にイエスを背負われることが神の御意図であるかどうか?
私には判りません。

一つだけ疑問を呈します。
普天間に行ったことはありませんが、
嘉手納には何度か行きました。
嘉手納には教会があります。
教会があると言うことは、そこにクリスチャンがいて、牧師もおられる訳です。
彼の人達も、在沖米軍はイエスの許し給わざることとして、
その廃絶を願い、廃絶の為「We shall overcome」と合唱しているでしょうか?

もしそうでないならばーーー、
イエスは何処におられるのでしょう?

曽野綾子さんは
「隣人とは、遠人ではない、
自分の利害、思惑に関ってくる隣人だ」と言われます。
その隣人を愛すると言うことは、
戦い、うち勝ち、追っ払うことではなく、
その存在を理解し、そのまま受容することのようです。

師の唱いあげる打ち勝つべきものとは、
人間の、自分自身の心の闇ではないのか?
そう思うのです。

御釈迦様は「打ち勝つ」とは言わず、
「明らめる」と言われるようですがーーーー

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安陪総理の靖国参拝非難でまだメディアは盛り上がってます。
非難の筋は概ね2つ
戦後の国際秩序への挑戦。
東京裁判を受容することによって認められた我が国存立の根拠の否定。
露骨に言えば、正義は勝ち、悪だから負けたと言う立場を思い知れ!
もう一つは
中韓のみならず米欧まで非難。
孤立する国際孤児日本。

安陪総理が、国際秩序に挑戦する為に靖国に行ったとは、マンガ以下ですね。
靖国に行くぐらいでグラグラするようなものが、秩序とはとても言えません。
安陪さんでなくとも、一国のリーダーなら考えもしないことでしょう。
しかし、戦後国際秩序なるものが我が国にとって「損」なら変更する努力はすべきです。

事柄の根っこは、
日本のド真ん中にある、日本人なら誰でも行ける場所に、
国のリーダーが行ってはいけない等と言うことがあって良いのか?
それだけの事実です。
「心の中」などと言う見えもしないものに文句をつけ出したら人間界なんぞ成り立ちません。

 
こんなことで国際秩序が壊れたり、紛争の火種になる筈がない事くらい少し頭の良い人間なら判り切ってることです。
よその国が非難するのは、それが得か、
少なくとも損にはならないからでしょう。

某国が非難するのは、
頭のあまり良くない人達が、
日本中でウロウロとヒステリックにティームワークを壊し、
それが得だと思うから火をつけるんだと思います。

それを内で煽る輩もいるようです。
火付けが内で、団扇が外と言う説もあるようですがーーー

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敢えて言わしていただければ、
火付けは犯罪です。
団扇、
品は
無い。

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イエスと空海

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「イエスと空海」
ナカニシヤ出版
ペテロ.バーケルマンス
著者は、
ベルギー、ルーベンカトリック大学司祭
1990年、30歳で来日、
2011年まで20年間
高野山大学院等で仏教学専攻、
白百合女子大、上智大講師、松原カソリック教会司祭等歴任。
真言宗の神秘体験をも求道。
真言密教をキリスト者に理解してもらうため本書を執筆したとのことです。

概要は、
真言密教の思想、教義、修練、儀式まで詳細に分析し
キリスト教のそれと対比し、
両者は異なるものの如くであるが「不二」
本質レベルでは同一との結論です。

師の説かれる真言密教は、概ね次のようです。
1、人間の行為(業;カルマ)は、
  身業;行動による業
  口業;言葉
  意業;精神行動
  の三業であり、生来の無明に因る煩悩が付きまとう。
2、三業を大日如来の身、口、意の三密に合一し、如来の悟りに至る(即身成仏)ため、
  行者は三密行を行う。
  印契;右手、金剛界(知恵)左手、胎蔵界(慈悲)を表す500種に及ぶ手印を結び
  真言;如来の言葉を唱え
  観想;如来、曼陀羅等を観想する。
3、この修行の間に、行者は三力を得、如来に合一しうる。
  三力は
  功徳力;善行により得る力(自力)
  加持力;大日如来からの恩恵(他力)
  法界力;宇宙の神秘の力、(真理)

さて、キリスト教は、
1、三業は、原罪と不二。
  アダムとイヴの神に背いた罪「生まれながらの罪人」思想。
  人間の無明、煩悩の象徴でしょうか。
2、三密行は、
  印契;祈るときの手印
  真言;聖書、イエスの言葉
  観想;十字架、聖者、イコン
     プロテスタントは偶像崇拝と言うでしょうか?
     でも
     モーゼの十戒は「己の為に」偶像を刻むな、
     パウロは、偶像崇拝とは貪りなり
     と言います。
3、三力思想は、三位一体の恩恵論と不二。
  功徳力;楽に手に入る恩恵はない
        (エミール.ブルンナー)
      プロテスタントは否定的ですが、
      掟があるなら、自力完全否定は
      困難でしょう。
      師は全ての宗教は
      信仰と実践、信仰と修行、他力と自力
      のジレンマを持つと言われます。
      唯一の掟と言えば、
      「神を愛せ。隣人を愛せ」ですが、
      アウグスティヌスによれば、
      隣人を愛さないのは、
      既に神を愛していないことだそうです。
      イエスは、
             「眼、つまずかさば、抜きて捨てよ」
      と言います。
      この力は、三位一体の「精霊」の
      恩恵に当たるそうです。
  加持力;神の一方的な恵みです。
      三位一体の「子」の恩恵。
  法界力;「父」からの恩恵です。

この様な論理構成が、宗教の本質をすべて網羅するものかどうか私には良く判りません。
例えば「百尺竿頭すべからく歩を進むべし。十万世界これ全身」
こう言った禅宗の覚悟は、どうだろうかと言う疑念はあります。

又、斯くまで詳細に比較の上、「不二」と言われますが、
信仰に当たっては、神か仏かを選ぶべしとされます。
目指す頂上は同じでも、道は異なる。
人は同時に二つの道を歩むことは出来ないのでしょう、
しかし、すべからく「不二」なら、
もしかしたら、違う道を歩いていると言うのは人間の思い込みかも知れません。
知らずに同じ道を歩いているのかも?
「色即是空。空即是色」と言う次第です。

更に、三位一体の神が如何なる顔をされているかを明らかにした人は当然ながらいません。
「本地垂迹」、ある時、神は大日如来の顔をされているとかーーー
どうしても三位でなければならないのでしょうか?

 

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イエスと空海

「イエスと空海」新聞で発売広告を見ました。
イエスと法然、親鸞のお話は何度か読んだことがありましたが、
法然と激しく対立と言うより迫害を加えた天台、真言等の既存仏教、
その一つ、真言宗創設者の空海とイエスとは?と、
早速購入申し込みをしました。

 

手元に届くまでの2週間、
イエスと浄土宗に関する本を読み返してみます。

 

キリスト教と浄土宗の類似は、
「救われる」為の律法や、「悟り」の為の戒律。
天国、浄土を熱望しながら、律法、戒律を守っていては、生きることも叶わぬ人達に、
救ひに至る道は、律法や戒律を守ることではなく、
只管、イエスの十字架の贖いを信じること、
阿弥陀仏を念ずることのみによると説く「他力本願」にあるようです。

 

1「新約聖書と歎異抄」
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  PHP 渡辺暢雄 1911.3.22 初版
  著者はキリスト教の牧師。
  でも、駒沢大で、仏教を専攻されたそうで、
仏教、殊に親鸞についての解説は、細やかで、色々教えられました。
しかし、ご自身の立場からの制約からか、類似性を説きながら、
相違点が本質的であることを強調されるため、
庶民一般向き宗教書と言うより、
仏教に対するキリスト教の優位を説く、キリスト教信徒向けプロパガンダのようで、
残念でした。

 

例えば、「罪」
罪の存在を前提とするところは類似点だが、
法然、親鸞のそれは、現世の犯罪的罪、
キリスト教は、神に対し責任を問われる、一層内面的なものとされます。
人は生まれながらにして罪人;「原罪」と言う事でしょうが、
ならば、日常の食物まで微細に定める掟はどうでしょう?
モーゼの十戎;唯一神への厳しい帰属を命ずるほかは、殺すな、偽るなと、
俗世の犯罪に思います。

また、仏教の罪が犯罪的罪とは、人間によって裁かれる罪という意味でしょうか?
ヨハネ福音書の姦通罪を犯した女に対する、「石打ちの刑」は、
モーゼの律法だそうです。
「罪」を定めるばかりか、人間の手による石打ちの「罰」まで定める律法とは如何なることでしょう?
キリスト教には神が存在し、仏教に神なるものは存在しないという程度の発想なら、
浅はかな決め付けと思うのですが。
他を裁くなら、ま先ず、己が目の木屑を取るべきでしょう。

 

「信仰」「信心」については、
「法然親鸞の信仰が如何にキリスト信仰に近くとも、
 所詮仏教の枠を出るものではない」と、
西南学院大、三串一士教授のお話を引かれます。
曰く、
「親鸞の信仰が如何に深くとも、人間釈尊を救い主とせず、
釈迦滅後、600年以上も後に何人かによって作られた経典の中の神話的な阿弥陀如来を、
唯一絶対の救い主として信じると言う真に不思議な驚くべきものである。
もし親鸞が、キリストの十字架の福音に接することが出来たならば、
日本は、恐らく、最大のキリスト者を有することになったであろう。」

仏教の深刻な理解もせず、不遜に思います。
小沢一郎君にまでキリスト教は排他的だと言われる由縁でしょうか?

要するに、この人達は、「世に神は唯一、三位一体のヤハウェのみ」
「実在するはイエスのみ。仏陀、阿弥陀は人間の作った幻影。」
そんな思い込みなのでしょう。

 

残念ながら、他の信仰の道に対する感受性は、
何百年も昔の法然師が、
現代の日本キリスト者の何百年も先を歩いているようです。

 

それは、次の、井上洋治師の著書でーー。

 

2、法然。イエスの面影をしのばせる人
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  筑摩書房 井上洋治 2001.2.20 初版
著者の井上師は、フランスにおける8年間の修道生活の末、
西欧2000年の文化が造り上げたキリスト教が心底に落ちず、
日本人の心情に、イエスの福音を捉え直そうと修練、
法然に辿りついたそうです。

 

師の心中には、
神との契約「律法」を守っていては、日々生きることも叶わぬ人達の為、
ユダヤ教の掟に汲々とする律法者に反逆し、
天国への道は、律法によるに非ず、唯信仰にのみよると説くイエスと、
平安末期、死臭立ち込める京の町で、極楽浄土を望みながら、
仏法の厳しい戒律を守っていては、その日の暮らしも立ち行かぬ人達に、
「寄進や知識、持戒、持律で本願に至ると言うなら、
貧しい人、無学の人、戒律を守れない人の往生は望めない。
そして、世にはこの人達の方が、はるかに多い」と、
唯阿弥陀仏を念ずるだけでよいと説く法然が完全に重なっているようです。

 

罪の意識や信仰についての差異は語られていません。
キリスト者として阿弥陀仏と唯一神との相違さえ言及されません。
その相違は「宗教」としての本質ではないとお考えの事だろうと推察しました。

 

キリスト者、宗教者としての信条は、
「イエスと、法然が全く同じとか、宗教はどの道からでも同じ頂上に達すると言っている訳ではない。
キリスト道にしろ、仏道にしろ、
その道を歩むと言う事は、生きると言う事であって、思索すると言うことではない。
人は、二つの道を同時に考えることは出来ても、決して生きることは出来ない。
我が道のみ正しいと言う独善的排他論は、誤りだが、
全ての道は同じ頂上に至るとする宗教多元論も誤りだ」と言われます。
これは信仰者としての節度でしょう。

 

でも、
法然の言葉を借りるならば、
「阿弥陀仏の御身から輝く光は、十万にある世界をあまねく照らす。
若し、阿弥陀仏を念ずる人あらば、
仏のみ光は、常にこの人ばかり照らしおさめ見棄てることはない。
その他の務めをする人まで照らしおさめるか否かは、
論じていない。」
少なくとも、
他宗の真実は判らないと言う訳です。

私も思うのですが、
思索するとは、まぎれもなく生きること

 

パウロは
「イエスの十字架の贖いは、十万億土をあまねく照らす。
これを信ずる人は必ず掬われ、見捨てられることはない。
他の道を信ずる人が救われるかどうかは、論じていない。」
のではないでしょうか?

「なんじら、信仰の弱きものを容れよ、
その思うところを詰るな。」
野菜しか食べられないからと言って、その人を蔑むな。
ーーーと言うことです。
(ロマ書14章)

 

  最後に、
3、釈迦とイエス
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  祥伝社 ひろさちや 1988.11.20

 

イエスと釈迦、信仰者にとっては、共に、本来、神であり仏であることを認めつつも、
人間イエス、人間釈迦として比較することによって、
それらが生まれたインドとイスラエルとは何であるかを解き明かしているように思いました。
結局、人間は、人種、環境、によりその本質を異にするか?

 

人は、その必要に応じて神をイメージして来たのか?

 

そんな宗教社会学だとーーー。

 

○共に政治、世俗を捨て、只管宗教者を意図しつつ、
イスラエルの土地、歴史が、それを許さず、死ぬまでそのしがらみから抜け出せなかったイエス。
小国なりと謂えど王と言う地位にあったため、己の意志だけで、
政治、家族と言う世俗を捨てることが出来た釈迦。

 

○その違いは、世俗を完全拒否したイエスであり、
 宗教を世俗の延長線上に置くことが出来た釈迦。

 

○つき従う弟子たちに、我はイスラエルを独立に導くリーダーに非ず、
 「神の子」なりと、明示するために、湖上を歩き、ラザロを蘇らせる奇跡を必要としたイエス。

 

 政治を完全に拒絶し得たが故に、人生の摂理を明らめるだけでよかった釈迦。

 

例えば、
我が子シーヴァを失い、日夜、荼毘に付された場所で泣き崩れるコーサラ国王妃に、
「此処には、荼毘に付された8万4000人のシーヴァがいる。
お前はどのしーヴァの為に泣くのか?」

 

目指す道は同じでありながら、想念、行動に於いて相違せざるを得なかった。
此の相違は宗教の本質か?

 

考えさせられる、そして面白い本でした。

 

「二大宗教の核心に迫る名著」
臨済宗 松原泰道師の推薦文です。

 

「イエスと空海」手に入りました。
どんな具合でしょう、読み終わったら報告します。

 

 

 

 

 

 

 

 

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罪と罰

思い付きでしたが、
前に、キリスト教に罰なしと書きました。

その理由は何でしょう?

それは、
人は、既に許されているからである、
そう思いました。
敢えて受肉した、神ご自身の十字架の贖いによってーーー。

そして、それは、創世のときからの神の予定であったようです。


真宗は言います
「善人なおもて往生す。況や悪人おや」

既に仏に救われたと気付いた人達は、
感謝をこめて、念仏するのでしょう、
「南無阿弥陀仏」

そして、戦きつつ念仏する人は、
ある日、突如気付くに違いありません。
仏の掌の上に掬われた自分をーー。
0008
京都、禅林寺
みかえり阿弥陀


0001
法隆寺
阿弥陀如来


ところで、
救われた人たちのその後は?
ーー何をしても、常に、許されるのです。
人は、常に罪人。
生きることが、罪を産むことですから止むを得ません。

そして、
彼は、日々、
あぶら汗を絞りながら、
十字架に立ち戻るでしょう、
我が罪を許したまえとーー、

こうして、少しずつ、神の足下に近づけるのでしようか?

お話は、帰りますが、
キリスト教理解困難の第一歩は「原罪」。
アダムとイヴの世から「生まれながらにして罪びと」
でした。

では、
生まれたばかりの赤児は罪びとですか?
十字架のイエスを信じるまで罪びとのままですか?
それを知らない人は決して救われない罪びと断言しますか?

そんな筈はない筈です。
それでは受肉した神御自身の贖いの意味は
略、消失するでしょう。
世界に向かって宣言したパウロのキリスト教は、
極めて排他的なものになってしまいます。

イエスの十字架の後は、
人はみな生まれながらにして、罪許された者の筈です。

しかし罪許されたと謂えど、
生きることが、罪を産むことでしょう?
人は、生まれながらにして、
罪に塗れざるを得ないと言う意味の罪びと。

だから、人は、日々、十字架に立ち帰るべきなのです。
南無阿弥陀仏に戻るべきなのです。

では、
あくまでも罪びとでないと主張する人達はどうでしょう?
生涯を通じて、そんな人が居るかどうか分かりませんが、
それはそれで、
結局「幸いなるかな」なのでしょう。
キェルケゴールは、
確か、罪も神の啓示によると言っていましたからーーー、
それで良いのです。

今日の鶴ヶ島教会は、まだ、ロマ書第3章でした。
「神の前に義とされるは、信仰のみ」

鎌田師のお話に耳を傾けながら、
フト思いました。
パウロの書簡は、
もしかしたら、
パウロ自身の、自省を込めた、モノログかも知れないーーー。

ろくに聖書も読まない偏見でしょうが、
何故か、フト思うのです。

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ロマ書 3-9 罪

今日の鶴ヶ島教会は、
パウロ;ロマ書3-9、「罪」。

「我等は、既に、ユダヤ人もギリシャ人もみな罪の下に在りと告げたり。
 録して、
  義人なし、一人だになし
  神を求むるものなし、一人だになし
  彼らの咽は開きたる墓なり
  口唇の中に蝮の毒あり
  その口は呪と苦とに満つ
  その眼前に神をおそるる畏れなし」
     
   詩篇、イザヤ書の警句だそうです。

私にとっては、
キリスト教の最も原理的で難解な概念、「罪とは何か」でした。

鎌田師は、取敢えず、哲学的象徴的なことは避けて、
端的に、神の掟(律法)の破戒を説かれました。

シナイ山でモーゼが受けた十戎(出エディプト記20)
「汝我が前に我の外何物をも神とすべからず
 汝自己のために何の偶像をも刻むべからず 
 妄りに神の名を口にすべからず
 安息日を守れ、父母を敬え、
 殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、、
 隣人に対し虚妄の証拠を立つるなかれ、貪るなかれ」

しかし、パウロは律法の実行によって、神の前に義とされることはないと言います。

では律法は無視されるべきか?

否!
律法は実行すればするほど、
これを行うことは不可能であることを思い知らされます。
右の頬を打たれれば、左の頬を差し出せと命ずるのが律法なのですから。

律法とは、神に近ずくための縁、
人間には実行不能の道標なのだそうです。

であるが故に
神の前に義とされるは 律法によらず。
信仰に因るなり。

それ神はその独り子を賜う程に世を愛し給えり。(ヨハネ3-16)
人の罪を贖う為にわが子を十字架の生贄に差し出した程の神の「愛」を信じよう。
と言うお話でした。

つまり、律法の前で、慎んでも慎んでも、尚至らぬ我が身に絶望した時、

「あなた方の思い煩いを
一切神に委ねなさい。
神が、あなた方のことを心配して下さるからです。」
 (ペテロ第一 5-7)
と言う訳です。

ふと思いました。
「罪」と言えば「罰」です。
神の掟とする「罪」に「罰」はあるのか?

確かに旧約には、ソドムの消滅や、
BC9世以降のアッシリア、バビロニア、ペルシャ、ローマによるユダヤ民族の苦難があります。
これを「罰」と捉えるか否かは大いに問題のあるところと思いますが、
少なくとも新約には、「裁き」なる語はあっても、
その結果の「罰」は全く具体的ではないのではないでしょうか?

キリスト教に「罰」の概念なし、そう感じた次第です。

キリスト教に存在するのは、「救い」のみ。
神自らの御意図による「恵み」としての「救い」。

鎌田師は、世俗は「罪人」と言われると、頭を傾げるかも知れませんと言われました。

では、「悪人」は如何でしょう?

そこで、親鸞「歎異抄」を想い出します。
「善人なおもて往生す、況や悪人おや」

キリスト教の限りない優しさ、
いや、宗教の限りない優しさに気付いた一瞬でした。

キリスト教に「罰」なし。
この事、
そのうち、鎌田師にお教えを請いましょう。
ドストイエフスキイの「罪と罰}はこの辺りの因縁の話でしょうか?
東野圭吾さんしか読まない小説嫌いですが、ちょっと手にしてみます。
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ロマ書第1章(渡嘉敷島集団自決~ある神話の背景)

24年2月12日、
鶴ヶ島聖書教会は、パウロのロマ書第1章。
テーマは、神の意図にのみよる「恵み」
人間の努力に報いる報酬に非らざる「神の慈悲」です。

 

キリスト教徒迫害の先頭に立ったいたパウロは、
強烈な神の啓示によりその罪を思い知らされ、
一転、イエスの恵みを世界に説く、熱烈なキリスト者に回心します。

 

鎌田師は、このパウロに似せて、
金城牧師を紹介されました。
でも、私の知る「金城師」とは、
曽野綾子氏の「ある神話の背景」にも登場する、
渡嘉敷村集団自殺の折、死にきれない人達を、
撲殺して回ったとされる人物です。

 

この集団自殺に軍命令があったとして、
家永教科書裁判、
近年は大江健三郎裁判の証人として出廷されているようです。

 

世俗の最たる、人が人を裁く裁判なるものに、直接関与するする真摯なキリスト教聖職者を、
イメージすることはかなり困難でしたが、

80年に近いわが人生を省みつつ、
世には、
イエスの救いを得たうえでも尚、
他者の責めを借りねば拭い切れない罪の意識があるのだと想っていました。

 

しかし違っていました。
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「集団自殺を心に刻んで。
  沖縄キリスト者の絶望からの精神史」
 金城重明 高文研  では、


集団自決は、
軍が存在し、軍の誘導があれば十分であり、
直接的軍命令の存在は不要であった。
その背景には、
明治以来の、憲法、教育勅語、軍人勅諭による、
国民無視、天皇主権を根付かせる皇民教育なるものがあった。

 

故に、その責任(戦争責任と言う言葉に抽象化)は、
個人を超えるものではあるにしても、
赤松嘉次大尉を通じ、
金城師に、日本国民1人1人に帰る。

 

見事に抽象化され、一般化され、
目前に死に行く者の風貌、
撲殺した手の感触の記憶からの具体的な罪の意識とは思えませんが、

 

更に、
「集団自決に関しては、
 徹底した被害者でありながら、
 加害者の役割を担わされていたことを
 大人になって認識した。」とされます。

 

耐えきれぬ罪悪感どころか、
師に、罪の意識無しと断ぜざるを得ませんでした。

 

ならば、副題の「絶望」とは何でしょう?
キリスト教による救い、平和とは何でしょう?
世俗に解き明かすべきキリストの真実は、
完全にはぐらかされました。

 

また、「担わされていた」という言葉も不可解です。
誰が担わしたのでしょう?
当時16歳であった師を、
世間は、軍命令の、それこそ「徹底した被害者」の位置に置いて来た筈です。

(もしかしたら、それこそが、「神の啓示」?)

 

この著書の初版は、1995年。
1929年生まれの師は、66歳、
人生を省みるには、若過ぎたのでしょうか?
しかし、5版は、2008年、変更がないと言うことは、
心中は同じ、と言うことなのでしょう。

師は、キリスト教の容認する平和運動についても書かれます。
平和とは、定義不能なる広がりを持つものの、
信仰に基づく運動ならば、全て、認められる。

カイザルのものはカイザルに」
現状、平和運動の実態は、まさに政治と認識しますが、
師は、
キリスト者の信仰によると言わず、
むしろ被害者の権利であると主張すべきではないでしょうか?

しかし、
やはり、
人間の良心と言うものの為に、

金城牧師の良心は、
六十余年前の血に塗れた犯罪の記憶に、今尚、軋み続けているものと想像したいーーーそう思います。

とりわけ、
世俗極まる裁判と言う場に立った夜、
平和運動を主導した夜毎にーーー

ともあれ、
師は、キリスト教の聖職者、
大学で人間を育てる職責を果たされた、
プロの宗教者です。

 

「これこそキリスト者」なる心映えには、
無念ですが、
触れること適いませんでした。

 

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ふと、思いました。
軍命令があったとして、
それも、世を創られた神の意図であったとしたら?

 

その試練とは?

 

 

 

 

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ふしぎなキリスト教

「ふしぎなキリスト教」講談社新書
橋爪大三郎×大沢真幸

この書物、私には「ふしぎな書物」でした。

「神」は、
実在するでしょう。

カレン.アームストロングは、
人類の世代は、
ニーズに応じ、
自らの為に意図的に、
神についてのセンスを創造して来た。
しかし、
神は創造的なイマジネーションの産物でありながら、
最も重要なリアリティである。
そう語っていました。(「神の歴史」)

橋爪×大橋対談には、
そんな風な、宗教的と言う、人間の思い入れが判然としない為、
「神」はもとより、「人類」さえ見えない不思議な本でした。

 第一部 ユダヤ教
イスラエルの人々は、
信ずる者を、創造主と言う立場だけで、
苛み、破壊する妬み深き神を、何故創造したのか?
バアルでは無く、そんなヤハウェを何故選んだのでしょう?

エジプト、アッシリア、バビロニア等の強国に抑圧され続けた歴史から、
謂わば、自虐的忍耐を心の拠り所とし、
国を失っても、民族としてのアイデンティティだけは持ち続けるため、
詳細で、厳しい独自の律法を神の掟とした。

その様に読めないことも無いのですがーーー?
旧約の編纂は、バビロン捕囚期からと聞きますから、
そうかも知れません、
しかし、人間と神が、そんなに単純なものとも思えないのですがーーー?

 第二部 イエスキリストとは何か

イエスの歴史的実像の紹介のようです。

しかし、現在の正統派キリスト教会では、
人間イエスの観点は無いのではないでしょうか。
イエスは神の受肉、それ以上でもそれ以下でもありません。
これを、200%の中の神と人とかいう、
西洋論理が作りだした苦し紛れの教義とすることが、
正しいかどうか知りませんが、それを別にして、
現実のキリスト教から酷く遠いものであることは確かでしょう。

キリスト教を取り上げながら
今のキリスト教の信仰を見ていないように思うのです。

因みに、ユダの福音書には、
ユダは、銀貨30枚で売り渡すよう、
イエスに依頼されたとありましたが、
私の読んだユダの福音書では、
ユダが担ったイエスは、ただの人間の皮を着た肉の塊で、
これを十字架に掛けた人間共;物質世界の完全敗北として捉えられていました。
「神は受苦せず」グノーシス主義の原点だそうですがーーー。

宗教学社会学と言うなら、
こんな神話解説みたいなお話ではなく、
もっと大切な観点がある様に思います。

例えば、
ユダヤ教の延長線上で、
ユダヤ教を包摂しつつ、
ユダヤ教を否定すると言うキリスト教は、
イエス自身を十字架にかけ、
その後も多くの弟子、信徒たちを殉教させ、
何故、何をしたかったのか?

これが、イエスキリストの根源だと思うのですが?

 第三部 いかにに西洋を作ったか

予定論が資本主義を産み、
プロテスタントから自然科学が発芽し、
自然法なる近代法制も音楽、絵画も、
西洋文明の根源は、キリスト教の上に存在するそうです。

と言うことで、
あらためて、
資本主義とは何か?
自然科学とは?
そしてキリスト教とは一体何者?
と、極めて素朴な疑問に立ち返ってしまったと言う訳です。

西洋の名だたる芸術家や思想家がキリスト教徒だったからと言って、
キリスト教が、自然科学や近代法制を生み出したとは言えないと思いますが?

キリスト教が判らなければ西洋は理解できないと言うお話は、
以前から聞かされますが、
キリスト教の何を判らねばならないのでしょう?
聖書をどの様に読めば理解が進むのでしょう?
その理解とやらは、人々に、一体何を示唆して呉れるのでしょう?

まして、キリスト教が解らねば、日本は理解出来ないと言われては、
キリスト教徒僅か1%の国でーーー、
本当?

お二人は面白そうです。
デモ少々真摯さに欠けませんでしょうか?

逆説的ですが、
西洋の歴史を知らねば、西洋のキリスト教は理解できないのでは?

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アーメン

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