「イエスと空海」新聞で発売広告を見ました。
イエスと法然、親鸞のお話は何度か読んだことがありましたが、
法然と激しく対立と言うより迫害を加えた天台、真言等の既存仏教、
その一つ、真言宗創設者の空海とイエスとは?と、
早速購入申し込みをしました。
手元に届くまでの2週間、
イエスと浄土宗に関する本を読み返してみます。
キリスト教と浄土宗の類似は、
「救われる」為の律法や、「悟り」の為の戒律。
天国、浄土を熱望しながら、律法、戒律を守っていては、生きることも叶わぬ人達に、
救ひに至る道は、律法や戒律を守ることではなく、
只管、イエスの十字架の贖いを信じること、
阿弥陀仏を念ずることのみによると説く「他力本願」にあるようです。
1「新約聖書と歎異抄」

PHP 渡辺暢雄 1911.3.22 初版
著者はキリスト教の牧師。
でも、駒沢大で、仏教を専攻されたそうで、
仏教、殊に親鸞についての解説は、細やかで、色々教えられました。
しかし、ご自身の立場からの制約からか、類似性を説きながら、
相違点が本質的であることを強調されるため、
庶民一般向き宗教書と言うより、
仏教に対するキリスト教の優位を説く、キリスト教信徒向けプロパガンダのようで、
残念でした。
例えば、「罪」
罪の存在を前提とするところは類似点だが、
法然、親鸞のそれは、現世の犯罪的罪、
キリスト教は、神に対し責任を問われる、一層内面的なものとされます。
人は生まれながらにして罪人;「原罪」と言う事でしょうが、
ならば、日常の食物まで微細に定める掟はどうでしょう?
モーゼの十戎;唯一神への厳しい帰属を命ずるほかは、殺すな、偽るなと、
俗世の犯罪に思います。
また、仏教の罪が犯罪的罪とは、人間によって裁かれる罪という意味でしょうか?
ヨハネ福音書の姦通罪を犯した女に対する、「石打ちの刑」は、
モーゼの律法だそうです。
「罪」を定めるばかりか、人間の手による石打ちの「罰」まで定める律法とは如何なることでしょう?
キリスト教には神が存在し、仏教に神なるものは存在しないという程度の発想なら、
浅はかな決め付けと思うのですが。
他を裁くなら、ま先ず、己が目の木屑を取るべきでしょう。
「信仰」「信心」については、
「法然親鸞の信仰が如何にキリスト信仰に近くとも、
所詮仏教の枠を出るものではない」と、
西南学院大、三串一士教授のお話を引かれます。
曰く、
「親鸞の信仰が如何に深くとも、人間釈尊を救い主とせず、
釈迦滅後、600年以上も後に何人かによって作られた経典の中の神話的な阿弥陀如来を、
唯一絶対の救い主として信じると言う真に不思議な驚くべきものである。
もし親鸞が、キリストの十字架の福音に接することが出来たならば、
日本は、恐らく、最大のキリスト者を有することになったであろう。」
仏教の深刻な理解もせず、不遜に思います。
小沢一郎君にまでキリスト教は排他的だと言われる由縁でしょうか?
要するに、この人達は、「世に神は唯一、三位一体のヤハウェのみ」
「実在するはイエスのみ。仏陀、阿弥陀は人間の作った幻影。」
そんな思い込みなのでしょう。
残念ながら、他の信仰の道に対する感受性は、
何百年も昔の法然師が、
現代の日本キリスト者の何百年も先を歩いているようです。
それは、次の、井上洋治師の著書でーー。
2、法然。イエスの面影をしのばせる人

筑摩書房 井上洋治 2001.2.20 初版
著者の井上師は、フランスにおける8年間の修道生活の末、
西欧2000年の文化が造り上げたキリスト教が心底に落ちず、
日本人の心情に、イエスの福音を捉え直そうと修練、
法然に辿りついたそうです。
師の心中には、
神との契約「律法」を守っていては、日々生きることも叶わぬ人達の為、
ユダヤ教の掟に汲々とする律法者に反逆し、
天国への道は、律法によるに非ず、唯信仰にのみよると説くイエスと、
平安末期、死臭立ち込める京の町で、極楽浄土を望みながら、
仏法の厳しい戒律を守っていては、その日の暮らしも立ち行かぬ人達に、
「寄進や知識、持戒、持律で本願に至ると言うなら、
貧しい人、無学の人、戒律を守れない人の往生は望めない。
そして、世にはこの人達の方が、はるかに多い」と、
唯阿弥陀仏を念ずるだけでよいと説く法然が完全に重なっているようです。
罪の意識や信仰についての差異は語られていません。
キリスト者として阿弥陀仏と唯一神との相違さえ言及されません。
その相違は「宗教」としての本質ではないとお考えの事だろうと推察しました。
キリスト者、宗教者としての信条は、
「イエスと、法然が全く同じとか、宗教はどの道からでも同じ頂上に達すると言っている訳ではない。
キリスト道にしろ、仏道にしろ、
その道を歩むと言う事は、生きると言う事であって、思索すると言うことではない。
人は、二つの道を同時に考えることは出来ても、決して生きることは出来ない。
我が道のみ正しいと言う独善的排他論は、誤りだが、
全ての道は同じ頂上に至るとする宗教多元論も誤りだ」と言われます。
これは信仰者としての節度でしょう。
でも、
法然の言葉を借りるならば、
「阿弥陀仏の御身から輝く光は、十万にある世界をあまねく照らす。
若し、阿弥陀仏を念ずる人あらば、
仏のみ光は、常にこの人ばかり照らしおさめ見棄てることはない。
その他の務めをする人まで照らしおさめるか否かは、
論じていない。」
少なくとも、
他宗の真実は判らないと言う訳です。
私も思うのですが、
思索するとは、まぎれもなく生きること
パウロは
「イエスの十字架の贖いは、十万億土をあまねく照らす。
これを信ずる人は必ず掬われ、見捨てられることはない。
他の道を信ずる人が救われるかどうかは、論じていない。」
のではないでしょうか?
「なんじら、信仰の弱きものを容れよ、
その思うところを詰るな。」
野菜しか食べられないからと言って、その人を蔑むな。
ーーーと言うことです。
(ロマ書14章)
最後に、
3、釈迦とイエス

祥伝社 ひろさちや 1988.11.20
イエスと釈迦、信仰者にとっては、共に、本来、神であり仏であることを認めつつも、
人間イエス、人間釈迦として比較することによって、
それらが生まれたインドとイスラエルとは何であるかを解き明かしているように思いました。
結局、人間は、人種、環境、によりその本質を異にするか?
人は、その必要に応じて神をイメージして来たのか?
そんな宗教社会学だとーーー。
○共に政治、世俗を捨て、只管宗教者を意図しつつ、
イスラエルの土地、歴史が、それを許さず、死ぬまでそのしがらみから抜け出せなかったイエス。
小国なりと謂えど王と言う地位にあったため、己の意志だけで、
政治、家族と言う世俗を捨てることが出来た釈迦。
○その違いは、世俗を完全拒否したイエスであり、
宗教を世俗の延長線上に置くことが出来た釈迦。
○つき従う弟子たちに、我はイスラエルを独立に導くリーダーに非ず、
「神の子」なりと、明示するために、湖上を歩き、ラザロを蘇らせる奇跡を必要としたイエス。
政治を完全に拒絶し得たが故に、人生の摂理を明らめるだけでよかった釈迦。
例えば、
我が子シーヴァを失い、日夜、荼毘に付された場所で泣き崩れるコーサラ国王妃に、
「此処には、荼毘に付された8万4000人のシーヴァがいる。
お前はどのしーヴァの為に泣くのか?」
目指す道は同じでありながら、想念、行動に於いて相違せざるを得なかった。
此の相違は宗教の本質か?
考えさせられる、そして面白い本でした。
「二大宗教の核心に迫る名著」
臨済宗 松原泰道師の推薦文です。
「イエスと空海」手に入りました。
どんな具合でしょう、読み終わったら報告します。
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