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ルカ第10章

先週の説教はルカ第10章。

以来、善きサマリア人のお話をズット考えていました。

イエスを試して、律法学者が聞きます。
「永遠の生命を嗣ぐ為に何を為すべきか?」
イエス答えて曰く
「律法は何と言うか?」
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして汝の神を愛すべし。
 汝の如くに汝のとなりを愛すべし」

「それで良し」と言うイエスに、更に聞きます。
「わが隣とは誰なるか?」

そこで、善きサマリア人のお話です。
強盗に身ぐるみ剥がれ息絶え絶えで道端に倒れている旅人の傍を、
司祭もレビ人も見ぬ振りで通り過ぎます。
次に通りかかった異邦のサマリア人は、
彼に油と葡萄酒を注ぎ傷を包み、驢馬に乗せ旅籠に連れて行きます。

そしてイエスは律法学者に問いかけるのです。
「強盗に襲われた旅人にとって、誰が隣人か?」と、
「憐みを施したものなり。」律法者の答えです。

イエスのテストに、律法者が見事に落第した一瞬!

そんな風に思えませんか?

イエスは、世に「剣」を齎すために来たと言います。
イエスの説くところは、徹底的に厳しい、
己に利を齎す者を愛するは当然、
愛すべき隣人とは「敵」であるべきだと説くのです。

追剥にあった旅人にとって、愛すべき隣人とは、
見棄てた司祭、レビ人、
とりわけ追剥そのものである筈です。

そして、善きサマリア人が隣人であると言う律法者には、
「そう思うならそうしなさい。」と言い放つのです。
それすらも出来ないだろうと言うことかも知れません。

無知で卑怯な律法者は?
心に闇を抱えた、わたし?

我が罪を許したまへ。
試みに遭わせず悪より救いたまへ。

神を愛する為には、
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思ひを尽くさねばなりません。
自分を愛するほどにも隣を愛せぬもの、
自分すら愛せないものが、神を愛すなど到底無理なのでしょうか?

神を愛する為には、
奇跡の自覚、神秘体験が必要でしょうか?
真言宗の荒行、禅宗の座禅、そんなものを通じてーーー。
そして、神を体感する。
十字架の救いを確信するに至る。

昔、ある牧師から聞きました。
嫌いで嫌いで顔も見たくない隣人がいたそうです、
何故嫌いなのか、よく考えてみると、
隣人は私のソックリさんだったとか。

神の命令は、困難で難しい。

思い煩いは
いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを、心配して下さるかです。
(ペテロ第1 5-7)

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アーメン

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コメント

今、親鸞を読んでいます。
母を殺し、
今、親鸞を焼き殺そうとする極悪非道の黒面法師にも阿弥陀仏の救いはあるのか?

投稿: ken | 2015年4月 5日 (日曜日) 14時39分

すごいお話ですね。
今ならさしずめ、私たちの愛すべき隣人はISの連中ということになりますか。
でも、ISの人々にしてみれば皮肉な話ですね。
彼らから見たら憎悪の対象である、異教徒のイエスに愛されているということになりますもんね。
イエスとIS、(信ずる神は違えど)どちらが神の御心に適っているのかな。

投稿: aro | 2015年4月 4日 (土曜日) 16時59分

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