« 竹深舎24年度ゆかた会 | トップページ | 三党合意 »

罪と罰

思い付きでしたが、
前に、キリスト教に罰なしと書きました。

その理由は何でしょう?

それは、
人は、既に許されているからである、
そう思いました。
敢えて受肉した、神ご自身の十字架の贖いによってーーー。

そして、それは、創世のときからの神の予定であったようです。


真宗は言います
「善人なおもて往生す。況や悪人おや」

既に仏に救われたと気付いた人達は、
感謝をこめて、念仏するのでしょう、
「南無阿弥陀仏」

そして、戦きつつ念仏する人は、
ある日、突如気付くに違いありません。
仏の掌の上に掬われた自分をーー。
0008
京都、禅林寺
みかえり阿弥陀


0001
法隆寺
阿弥陀如来


ところで、
救われた人たちのその後は?
ーー何をしても、常に、許されるのです。
人は、常に罪人。
生きることが、罪を産むことですから止むを得ません。

そして、
彼は、日々、
あぶら汗を絞りながら、
十字架に立ち戻るでしょう、
我が罪を許したまえとーー、

こうして、少しずつ、神の足下に近づけるのでしようか?

お話は、帰りますが、
キリスト教理解困難の第一歩は「原罪」。
アダムとイヴの世から「生まれながらにして罪びと」
でした。

では、
生まれたばかりの赤児は罪びとですか?
十字架のイエスを信じるまで罪びとのままですか?
それを知らない人は決して救われない罪びと断言しますか?

そんな筈はない筈です。
それでは受肉した神御自身の贖いの意味は
略、消失するでしょう。
世界に向かって宣言したパウロのキリスト教は、
極めて排他的なものになってしまいます。

イエスの十字架の後は、
人はみな生まれながらにして、罪許された者の筈です。

しかし罪許されたと謂えど、
生きることが、罪を産むことでしょう?
人は、生まれながらにして、
罪に塗れざるを得ないと言う意味の罪びと。

だから、人は、日々、十字架に立ち帰るべきなのです。
南無阿弥陀仏に戻るべきなのです。

では、
あくまでも罪びとでないと主張する人達はどうでしょう?
生涯を通じて、そんな人が居るかどうか分かりませんが、
それはそれで、
結局「幸いなるかな」なのでしょう。
キェルケゴールは、
確か、罪も神の啓示によると言っていましたからーーー、
それで良いのです。

今日の鶴ヶ島教会は、まだ、ロマ書第3章でした。
「神の前に義とされるは、信仰のみ」

鎌田師のお話に耳を傾けながら、
フト思いました。
パウロの書簡は、
もしかしたら、
パウロ自身の、自省を込めた、モノログかも知れないーーー。

ろくに聖書も読まない偏見でしょうが、
何故か、フト思うのです。

|

« 竹深舎24年度ゆかた会 | トップページ | 三党合意 »

キリスト教」カテゴリの記事

コメント

記事読ませて戴きました。私も、人間本来罪無き者に同感なのですが、私の知ってる五井昌久先生の御著書をお読みになれば、その道理が良く解かると思います。

投稿: 亀崎義隆 | 2012年7月 5日 (木曜日) 08時27分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 罪と罰:

« 竹深舎24年度ゆかた会 | トップページ | 三党合意 »