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ルカ15章(キリスト教と仏教)

鶴ヶ島聖書教会の10月は、秋の伝道礼拝。
第2週の今日は、ルカ15章「神自らが救いたもう」です。

1匹の迷える子羊と、見失った1枚の銀貨、
そして放蕩息子の回帰。
生前贈与を要求し、放蕩三昧に明け暮れ全てを失った子が、
やがて我に帰り、許しを求めて父のもとに帰る。
罪人たる人間が悔い改め、救いの道に至ると言う事でしょうか?
神自らが探し出される子羊とは微妙に差があるようですが、
この差には、特別な意味が、きっとあるのでしょう。

法華経にも、同じような喩があります。
信解品「長者窮子の喩」
幼い頃家出をし、五十年も放浪の末、窮子(ユウシ;乞食)に落ちぶれた我が子を探す旅に出た父親、
長者になった父のもとに通りかかった子は親とも知らず、
その下で二十年も穢れた仕事に明け暮れた末、やっと親と知ると言うお話です。

一概には言えませんが、
キリスト教は、本来罪に穢れた人間が、悔い改め、救いに至り、
仏教は、そもそも仏心を持つ人間は救われる地位にあり、
その事に気付くよう、巧妙に仏は導かれる。
そう言う事でしょうか?

「我に帰る」と言う事こそ神の啓示でしょうから、
キリスト教と仏教の、なんと、そっくりと同じ風景であることでしょう。

ところで、
救いとは何か?

信仰ですから、救われると信じる事ですが、
イエスは、唯一つの掟として、
「愛せ!」
神と隣人を愛せと命令されます。

仏は、己を明らめつつ、
「”我”を去れ!」
と説くようです。

グノーシスは、罪とは「暗闇、欲望、無知、怒り」と言います。

「愛」と言い「エゴを去れ」と言い、
結局、己を確かめつつ、我慾こそが闇と言う真理に回帰する事なのでしょうか?

Photo 広隆寺弥勒菩薩

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